本文は保存記事をもとに掲載しています。「現在」などの表現は元記事の記載時点を指します。証言・調査上の推定は原文の表現を残しています。

北茨城市磯原町仲町地区在住の鈴木和雄さんが2010年8月15日に書き記された覚え書き「空襲と弟の誕生」について、和雄さんのご了解をいただき、全文を掲載させていただきます。
 この文章は北茨城市の模擬原爆着弾地解明において、時系列の記憶として重要な根拠となっています。また、終戦間際の茨城県北地域の空気を生々しく伝える第一級の文章だと思います。
 この「弟」こそ、故・鈴木勝利さんです。北茨城への模擬原爆投下の翌日に生まれた勝利さんが「地域に伝わる爆弾山」と「米軍資料に記された、北茨城の模擬原爆」を最初に結びつけました。

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空襲と弟の誕生
                      鈴木和雄

昭和二十年六月十月の日立製作所海岸工場爆撃以来、私達学徒動員は週毎に働く場が転々と変わった。諏訪台の奥の山腹に小さな工場建設に行ったり、多賀工場の敷地に高射砲陣地の土嚢積み、佐和駅から海岸へ、松林の手前に敵を迎え撃つトーチカ作りをしたりした。兵隊さんより新兵器だと見せられたのはみかん箱の大きさの板に五寸釘を五本うったものであった。それらを見てがっかり「何と幼稚な考えと」、説明によると高さ40~50センチにピアノ線を張り敵兵の足がピアノ線につまずき倒れ丁度五寸釘の上に、もっともな話でそううまく行くかなと疑ったのが思い出される。
 B29の空襲は日を重ねる毎に熾烈なものとなり、日中はグラマンが低空で、アブの乱舞のように飛び回り動く物を見つけるとところかまわず機銃掃射、二つ島トンネル付近では客車が襲撃され、乗客に犠牲者が出た。
 寺山の畑で小麦刈をしていた時、突然グラマンが超低空で畑のわき(現在の磯原郷英高校の正門付近)を通過、パイロットの黄色いマフラーとその笑顔が印象的であった。
 七月十七日夕方より雨足が強くなり夜も深まるにつれ雨も激しさを増す。暗い電灯の元で漢和辞典を開き学習課題をすませ、床に入ろうとした時雷鳴に近い聞いたことのない音、この音は艦砲に違いないと寝入っていた両親を起こし、ねぼけまなこの妹弟と母を連れ雨で何も見えない中、砲弾の光を頼りにトンネルへ避難、まだ誰もきていない、しばらくしてにぎやかになってきた。小名浜沖から南下しながら日立、多賀工場を狙い砲撃したらしい。十八日の朝には砲撃は止む。雨の天候はうそのように好天となる。
 十九日、父は警防団七分団長として日々詰所へ日参、珍しく一昨夜半ごろより艦砲射撃をまともに受けた日立の沼田家の見舞いに出かけたが、最終の列車になるようなので家族で父の帰りを待っていた。今夜もB29が来そうな感じがする。今のうちに一眠りしたいが我慢する。
 母は今にも生まれそうな腹をおさえて、薄暗い茶の間に私達子三人を呼び、戸棚の中より小さな壺を取り出して、その中に残っていた砂糖を前に、「砂糖はいつ買えるかわからないからみんなで砂糖湯を作って飲もう。」と言って四人だけで久しぶりに甘い砂糖湯の味をかみしめて飲んだ味が忘れられない。
 夜十時過ぎ父が帰って来て日立の様子を話してくれた。伯父の所は、まだ、被害を受けなかったが、工場周辺は大打撃を受け死傷者も多数いた様だった。遅いのですぐに床に入り寝込んだ。けたたましく雨戸をたたく音で目覚める。「早く起きろ!」と東京の叔父のどなり声、急ぎ闇の中、母と妹弟を連れ、信玄袋だけ背中に背負い外に出ると、B29の爆音、南の空は真紅に燃えてその明かり(高萩地区の炎)をたよりに観音様の横穴へ急ぎ入る。近所の人たちは皆入って待っていた。この時、その大編隊が日立、田尻、高萩を爆撃していた。「早く早く泣くんじゃない静かにしろ」と注意され、むしろの所に落ち着きほっとする。その時「ダダーン」と、耳をつんざくような爆破音、あたり一面真昼の様な明るさ、田んぼから我が家へと火の海だ。よくみると我が家の軒下から一面紅い炎があがっているではないか。無意識に家へと飛び出したが、警防団員に止められた。我が家が焼け落ちるのをみる悔しさ、B29は去り静かな暗闇の中、空から布テープに火がつけられゆらゆら落ちてくる。その火のついた布が本宅の麦わら屋根に落ち燃え出し部落の人々と消火に当たり消し止めた。我が家はあとかたもなく母屋隠居共に灰塵、米のあった所の炎の色が違うので町内の人たちがバケツを持って来て消火に当たってくれ、私は青い炎の上がる所に集中して水をかけるが、かけてもすぐに水蒸気となり、何回も続けて水をかけてやっと消すことができた。明るくなってから焼け跡から黄色くなった米2俵があった。これらが新米ができるまでの貴重な糧となった。
 父は焼ける直前にウマを寺山の畑を引き連れる途中で馬をはなし、急いで家へ戻ったときは炎で中へ入れなかったと云う。
 明るくなるにつれて町内の人がバケツで消火に努めてくれたが、全てはきれいに灰と化していた。自分の部屋をみると寝床の枕もとには開いたままの漢和辞典がそっくり灰になっていた。六角形の焼夷弾が8発の一つは床の上部、ふとんの中央にささっており、少し遅かったらと寒気がした。明るくなるにつれ我が身をみつめがっくり、冬服、冬ズボン、ゲートルだ、着替えなどすべて灰、持ち出したのは信玄袋のみ。この中には生まれてくる子の肌着とおむつのみであった。
 二十日の朝方ついに家は灰居と化し完全に燃え尽きた。小雨が降り母妹弟は本宅の隠居へ寄せてもらう、八時頃、B29が一機近く飛び、爆弾の落ちるヒュルヒュルヒュルという音で、急いで木の本に隠れる。一トン爆弾が破裂した音の凄さに心をゆさぶられ、後の大日本炭鉱地区の山中に直径十五メートルくらいの大穴をあけたようだ。その後、小雨もあがり、町中の人々から励ましの言葉や日用品が届けられる。
 出産間近の母が心配だった。父は分団長なので詰所へ顔を出し大変忙しい状態だった。とりあえず空久保へ里帰りするために、列車の切符を買いに駅に行った。列車は動いているが軍事優先で、なかなか切符が買えず、やっと二時頃の列車に乗ることが出来た。信玄袋を持ち、弟を連れて母をかばい、空久保へ川尻駅から約4キロ弱歩く。路線わきを通ってやっと実家へ、実家の伯父は南方の戦場へ行っていて激戦中。留守は気丈な伯母、祖母、二人の子供、そこへ無理やりに入り込んだ形だ。歩くのがやっとの母、生まれてくる子を考えると、一瞬のうちにすべてが灰になってしまった悔しさと不安で一杯なのだろう、涙を流しながら実家の敷居をまたぎ老母とだきあった姿がわすれられない。伯母も気持ちよく迎い入れてくれた。
 少し遅れて日立の沼田家一家が大八車に衣類日用品山積みで空久保の実家へ到着した。沼田家の家もきれいに燃えてしまったという。伯母と母は無事を共に喜び合った。実家は急に大勢となりにぎわった。ランプ生活の実家は暗くなるのは早い。雑魚寝で昨夜よりの寝不足の疲れで深い眠りのなか、伯父に起こされた。母が出産間近いので伯父と二人で田尻の産婆さんを迎えに行く。
 朝三時頃、まだ暗い道を伯父に寄りそって行った。川尻の町は灰居と化し黒こげの柱の中より炎が所々よりあがり不気味だった。やっと産婆さん宅を見つけ、無理に来てもらうように伯父が話し、実家へ産婆さんを連れて来た。
 明るくなった五時頃にたどり着くと赤ん坊の泣き声が聞こえた。祖母が「男の子が産まれたよ。」と晴々とした声で話してくれた。あまり丈夫でない母は気を引きしめていたのだろう。産後の処理は産婆さんにまかせて一安心だった。

この時の磯原の空襲の被害は、焼夷弾により炎上した家屋は百軒近くにのぼり、犠牲者は一名だった。

七月二十一日朝男子出生、あとで「勝利」と命名した。

八月十五日、母子共に磯原に帰るため、伯母に荷を持ってもらい川尻の駅へ向かう。母の実家まで迎えに行った私は、珍しくグラマンの姿がみられないと思った。駅に着くと、何か変な雰囲気であった。そこにた人たちは皆放心状態であった。正午の玉音放送で日本が負けたことが分かり、全く信じられなかった。あの虚脱した気持ちを忘れることはできない。

その後、母と勝利は本宅の隠居の座敷の一部屋をあてがわれ新居が出来るまで住まわせてもらったのである。

平成二十二年八月十五日 回顧
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出典:Facebook「模擬原爆北茨城着弾地調査」

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