本文は保存記事をもとに掲載しています。「現在」などの表現は元記事の記載時点を指します。証言・調査上の推定は原文の表現を残しています。

模擬原子爆弾は、1991年、愛知県春日井市の市民グループ「春日井の戦争を記録する会」の米軍資料調査がきっかけとなり、日本側で広く知られるようになりました。模擬原爆投下から46年後のことになります。被害が出た地域では一機のB-29が飛んできて大きな爆弾を落としたことは確認されていましたが、多くの地域で「1トン爆弾」と推測されていました。

北茨城市大津町を目標とした模擬原爆投下も米軍資料からわかっていため、1992年、春日井の戦争を記録する会の方々が北茨城市大津町を訪れて聞き取り調査を行ったそうです。しかし手がかりは得られず、「着弾地は不明。海に着弾の可能性」とされました。

その後、2010年頃になり、当時、茨城県の戦争遺跡の研究をまとめておられた筑波大学教授の伊藤純郎さんにより、大津町での聞き取り調査が行われました。この調査には、北茨城市在住の郷土史家の丹賢一さんが協力されています。しかしやはり有力な証言は得られなかったようで、「海に落ちたのではないか?」との推測が立てられました。この経緯は、2010年7月20日付の朝日新聞の記事「原爆訓練の記憶探しています」となりました。

その後、丹さんは地元の関南町神岡地区で話を聞いて回ったところ、大きな爆弾が落ちた爆弾山の話を聞き、爆弾山が模擬原爆の着弾地ではないかと気づきます。ただ、神岡地区から爆弾山に行く道がなかったためか、爆弾山の位置が華川町臼場地区であるという(結果的に間違った)話を聞き、臼場地区を一軒一軒聞いて歩いたそうです。あの堤が爆弾が落ちた穴ではないか、という話もあったそうですが、結局、爆弾山の正確な位置はわからなかったそうです。

同じ2010年頃、元磯原中学校校長の故・鈴木勝利さん(かつとしさん)が、錦鯉の産地の山古志を訪れたついでに長岡市の長岡戦災資料館に立ち寄り、そこで長岡に落とされた模擬原爆のことを知ります。そして「北茨城市にも同じ7月20日に模擬原爆が落とされていますよ」と聞きます。この時、勝利さんは「なぜ北茨城のことを長岡の人の方がよく知っているんだろう」と、とても恥ずかしく思ったとのことです。勝利さんはその後、模擬原子爆弾投下地点の碑も訪れ、また、長岡の模擬原爆についての冊子「左近の爆弾」を持ち帰ります。

勝利さんが長岡で聞いた大津町の模擬原爆の話を、兄の鈴木和雄さんにしたところ、和雄さんが15歳の頃に磯原で体験していた爆弾投下の記憶と日時が一致していたことが判明します。1945年7月19日深夜、日立空襲から北上したB-29による磯原町中心部を狙った焼夷弾攻撃である磯原空襲があり、当時、和雄さん一家が住んでおられた家が焼夷弾の直撃を受け、全焼しています。その翌朝の7月20日の午前8時頃、一機のB-29が北西から飛来し、爆弾を落としていたことを和雄さんははっきりと記憶しているそうです。当時は小雨が降ったりやんだりの天気で曇っていたため、B-29の機体は見えなかったものの、「北西から一機のB-29が飛来したこと」「爆弾投下の音がしたこと」「急いで木の陰に逃げたこと」「爆弾が爆発した音と振動が凄かったこと」を覚書に書き記しています。そして奇しくも、翌日の7月21日に、鈴木勝利さんが誕生しています。

当時、和雄さんは、大日本炭鉱の炭鉱住宅として開発される大日本地区の近くの山に爆弾が落ちていたことを知りますが、具体的な着弾地はわからなかったそうです。

実は、同じ爆弾が落ちた辺りの山は、終戦間際、大きな爆弾が落とされたことから、旧磯原地区など付近の住民の間では「爆弾山」と呼ばれていました。ただ、長年、「山の中に1トン爆弾を捨てていった」と言われており、誰もそれが4.8トンの模擬原爆だとは考えもしませんでした。

2018年になり、この爆弾山付近への、ドイツのバイワ社の日本法人による北茨城市太陽光発電所の建設計画が始まります。2018年5月18日、偶然が重なり、「爆弾山に今度、大きな太陽光発電所ができる」この話が、筆者の母・野口カヲルを通し、鈴木勝利さんに伝わります。爆弾山のことを初めて知った勝利さんはひらめきました、「爆弾山に落とされた爆弾こそ、北茨城市の模擬原爆ではないだろうか?」と。この「2018年5月18日の鈴木勝利さんのひらめき」が北茨城市の模擬原爆着弾地判明のきっかけです。

爆弾山の爆弾投下の様子は、筆者の父である故・野口友朗(ともお)が4歳11ヶ月の頃に直接、目撃していました。勝利さんは筆者宅を幾度も訪れ、友朗に聞き取りを行い、「爆弾山=北茨城市の模擬原爆着弾地説」の確信を深めていきます。

2018年6月23日、勝利さんは、(野口)雨情会を通して親しかった安部憲夫さんと共に参加した「戦争の遺構と平和を語り継ぐまちづくりシンポジウム」(県自治体問題研究所主催)で、「北茨城市の戦争遺構は、いま」の講演を行った丹賢一さんに講演後の質疑応答の際、一連の流れを伝えます。そして、勝利さん、安部さん、丹さん、朝日新聞記者の小松重則さんらで太陽光発電所建設前の着弾地への現地調査を試みますが、着弾地付近への道は管理が放棄されて久しく、着弾地付近まで近づける状態でありませんでした。その後、残念なことに勝利さんは体調を崩され、2019年6月に亡くなられました。

勝利さんが亡くなられてから丹さんが着弾地調査を主導されます。そして友朗が、石川満さんから、爆弾山の爆弾が着弾した水田の当時の所有者が金澤家であることを聞きます。この話を友朗が丹さんに伝えると、丹さんはしばらくして金澤家の金澤正造さんに聞き取り調査を行いました。その結果、金澤正造さんは戦後生まれであるものの、金澤家の水田に終戦間際に大きな爆弾が落ちた話は父親などからよく聞いており、爆弾が落ちた場所は大きな窪地となって耕作できなくなったことが確認され、さらに着弾地を含む不動産の地番が判明します。

着弾地の地番が判明したものの、残念ながらその頃には着弾地付近は太陽光発電所として整地が始まってしまっており、着弾の痕跡を探すのは難しい状態でした。結局、整地前に着弾地の詳しい現地調査、保全は行なえませんでした。

一連の経緯は、丹賢一さんによりまとめられ、朝日新聞日立支局の記者・小松重則さんに伝えられます。そして、小松さんは野口友朗、金澤正造さんに改めて取材を行って、朝日新聞茨城版2019年9月20日付記事「「模擬原爆」着弾は北茨城・磯原か 証言たどる」となりました。この記事によって、北茨城の模擬原爆着弾地が、爆弾山と呼ばれていた磯原町後大沢(いりおおさわ)の水田であることが初めて公知されたと言えます。

その後、2020年9月になり、筆者(野口友則)が、国土地理院の地図・空中写真閲覧サービスを利用し、1946年6月8日に米軍が撮影した航空写真(U159A-5_CA_0048)の中に、着弾クレーターらしき痕跡を見つけました。そして、米軍資料を分析しての空襲研究の第一人者であり、模擬原爆の着弾地の緯度と経度を調査しておられる工藤洋三さんにメールで連絡したところ、模擬原爆の着弾地の特徴を備えており、着弾クレーターの跡の可能性が高いとのご連絡をいただきました。工藤さんは、航空写真と現在の地図との重ね合わせにより、着弾地の緯度と経度を「北緯36度48分54秒 東経140度44分40秒」と算出されました。

航空写真上の着弾の痕跡という有力な証拠によって、北茨城市の模擬原爆の着弾地の緯度と経度の推定までたどり着きました。筆者は、この発見について「空襲・戦災を記録する会全国連絡会議」の「米軍資料の調査・活用に関する研究会」で2020年12月19日にオンラインで発表しました。

この発表について、筑波大学教授の伊藤純郎先生から、「もっと証言を集めた方が良いのではないか」とご助言いただき、北茨城市の市報で呼びかけ、皆様の証言を広く集めることとしました。太陽光発電所の土地の元地権者である野口守さんからも同様のご助言をいただきました。そして、皆様の証言を集めるための窓口として、当ページを2021年1月に開設しました。

※北茨城の模擬原爆着弾地が磯原町後大沢である可能性を初めて公知した朝日新聞朝刊茨城版2019年9月20日付記事(正当な引用の範囲にとどめるよう、画像の解像度を下げています)

原記事掲載の朝日新聞朝刊茨城版・2019年9月20日付記事。保存資料の解像度のまま掲載。
原記事掲載の朝日新聞朝刊茨城版・2019年9月20日付記事。保存資料の解像度のまま掲載。
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出典:Facebook「模擬原爆北茨城着弾地調査」

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