アメリカ軍の資料によれば、北茨城市への模擬原爆投下は、昭和20年(1945年)7月20日午前7時55分、大津町中心部(北緯36°50' 東経140°47')を目標とし、高度29,000フィート(8839.2メートル)から投下されました。曇っていたためか、目視ではなく、レーダーで目標を確認しての投下になります。
目標は郡山市内の工場でしたが、郡山市上空がやはり曇りであったため、機の判断で都市の中心部を第二目標として投下されました。これが大津町だったわけです。
なぜ大津町が選ばれたかは不明ですが、出撃命令書に記された航路において、第一目標の郡山からの帰路で太平洋に出る通過点として大津町沖(北緯36°49' 東経140°48')が指定されているため、元々、郡山への爆撃予定だった3機のB-29が通過する地域ではありました。
なお、当初目標の郡山市内の工場は、当時、燐製品を生産していた「日本精錬株式会社の郡山工場」です。現在の日本化学工業株式会社の福島第一工場と推測されます。
さて、7月19日深夜、多数のB-29が日立市を焼夷弾攻撃しています。「7月19日の日立空襲(焼夷弾)」です。日立空襲を行ったB-29の一部が北上し、十王町(日立市)、高萩市、そして、最後に磯原町(北茨城市)も空襲を受けました。これが「磯原空襲」です。磯原駅西地区に焼夷弾が投下され、100軒近くの民家が全焼、2名の方が亡くなられました。模擬原爆投下は、この磯原空襲の翌朝になります。「磯原空襲の翌朝に北茨城に模擬原爆投下」これは当時の記憶をたどる上で重要な事実です。
それから、1945年4月12日の大津町空襲と、7月20日の北茨城模擬原爆投下で、米軍機の航路が似ています。大津町空襲は、郡山空襲を行ったB-29の護衛任務から帰る途中だった米軍機P-51による大津町中心部への爆撃だったと言われます。一機のP-51が6発の50kg爆弾を投下し、火災も発生、49名の方々が亡くなられました。「郡山から大津町」という航路がこの2つの爆撃で一致しています。単に郡山から硫黄島への帰路として取りやすかったので一致していたのかもしれません。
北茨城市への模擬原爆は投下日時が1945年7月20日 午前7時55分で、これは富山市に落とされた2発の模擬原爆と並んで同じ時刻であり、「日本で最初の模擬原爆投下」と言えます。また、広島、長崎への原爆投下を含む一連の特殊爆撃任務(SBM)の1番目のための作戦であり、北茨城に投下したB-29のトップシークレット機の任務については「a」という最初の番号が付けられています。このため、模擬原爆、原爆の52の投下地リストでは一番最初に北茨城への模擬原爆投下が記されることが多いのです。しかし、長年、着弾地は不明でした。北茨城の着弾地が判明すれば、1発の海上投機を除けば、不明な着弾地は、7月20日のいわき市平(内郷近辺)、7月24日の神戸市、8月8日の徳島市の3箇所だけになります。(※2024年7月現在、神戸市の不明だった着弾地は西岡孔貴さん達の調査により、解明に近づきつつあるようです)
※北茨城市に模擬原爆を投下したB-29 トップシークレット機。Richard Campbell著「The Silverplate Bombers」の写真にスマホアプリColorizeで自動色付けしたもの。実際の機体の色は銀色。

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出典:Facebook「模擬原爆北茨城着弾地調査」
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