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鈴木和雄さんは2010年8月15日付で「空襲と弟の誕生」と題した覚書を書かれています。以下、この覚書と、和雄さんへの聞き取りから要点をまとめました。
・1945年6月~8月15日の終戦間際は当時、15歳で、学徒動員されていた。現場は、茨城県北地区を週毎に転々としていた。艦載機グラマンからの機銃掃射が毎日続いていた。(※「グラマン」は、グラマン社製のF6Fだった可能性が高いです)
・1945年7月19日深夜の磯原空襲で、B-29からの焼夷弾が直撃、和雄さんの家は朝までに全焼
・翌朝7月20日の午前8時頃、一機のB-29が北西方向からやってきた。機体は見えなかったが、爆弾が落ちるヒュルヒュルヒュルという音が聞こえたので木の元に隠れた。爆弾の凄い破裂音に心を揺さぶられた。(※着弾地から和雄さんの当時の家までの距離は、2.5kmほどと推測されます)
・翌7月21日、弟の勝利さんが、母の実家(日立市空久保)で生まれる。(※この故・鈴木勝利さんが模擬原爆の北茨城着弾地と爆弾山を結びつけました)
7月19日の磯原空襲、7月21日の勝利さんの出生日は客観的な記録があるため、鈴木和雄さんの証言と覚書は、7月20日の爆弾投下の有力な証拠と考えられます。
出典:Facebook「模擬原爆北茨城着弾地調査」
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