・爆弾が落ちる前の夜、複数のB-29が近くを飛んでいたのがわかった。新潟の方へ空襲に向かったのだろうと父は言っていた。
(※須田さん一家は北茨城市関南町湯ノ網の西側に住んでおられました。この時のB-29は1945年7月19日深夜の磯原町空襲を行ったB-29の可能性が高いです)
・爆弾が落ちる日は一番上の姉(須田豊子さん、当時14歳)を除く一家6人で田の草取りに早朝から来ていた。
(※須田さんが作っていた水田は着弾地北隣の沢沿いにありました)
・着弾当時、父の須田利蔵さん、母きくさん、次女の青山綾子さん(当時12歳)、3女の須田勝子さんの4人は、細長い田の中間辺りで、田の草取りをしていた。4女の赤津光江さん(当時7歳)は、妹の小磯チイさん(当時2歳)をおんぶし、北奥にあった藁葺きの休憩所にいた。背中には萩の葉っぱを背負い、米軍機に狙われないようにしていた。
・一機のB-29が西の方角がやってくるのがわかった。その後、高度を下げ、爆弾を落とし、旋回するのが見えた。父親の利蔵さんが、田んぼから上がって土手に伏せるよう、大声で指示し、4人は棚田の高い土手に伏せた。物凄い音がして、目の前が真っ暗になるほどの大量の泥のような塊が舞い上がり、やがて自分たちの周りに落ちてきた。自分のすぐ左と右に落ちたが、全く当たらなかった。6人の家族全員、全く怪我はなかった。父親の指示のおかげだったが、奇跡的だった。よく見ると、小さい爆弾の破片があちこちに転がっていた。恐ろしくて姉妹は泣いた。この時期、普段は昼食を持って朝早くから暗くなるまで田の草取りをしていたが、父親の利蔵さんが「今日は帰っぺ」と言い、家に帰った。
(※着弾地から200メートル程度の地点で田の草取りをされていたものと推測されます)
・父は従軍経験があったが、病気を患い、家に戻ってきていた。山の中に住んでいたので、防空壕も作らず、空襲への警戒心はなかったが、父は違った。父の警告がなかったら、やられていたと思う。父は「新潟への空襲の帰りに余った1トン爆弾を山の中に捨てていったんだっぺ」と言っていた。
・この話を関南小学校の友達などにした。
・爆弾が落ちた穴には、湖のように水が溜まっており、水面は真っ青で、若い人たちが来てよく釣りをしていた。
出典:Facebook「模擬原爆北茨城着弾地調査」
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