故・野口友朗(ともお、筆者の父)は5歳になる直前の夏の朝、一機のB-29がやってきて爆弾山に爆弾を落とす瞬間を目撃していました。その後、父の野口與一郎(よいちろう、筆者の祖父)と共に爆弾が落ちた場所まで見に行きました。沢のそばで、爆弾が落ちた大きな穴に水がたまっていたこと、周囲50mくらいの範囲内の木々が切り飛ばされていたことを覚えているそうです。その際、與一郎はジュラルミンのような爆弾の破片を拾ってきました。その破片は現在、行方不明ですが、銀色をしていて、すごくギザギザとした跡がついていたということです。
友朗はB-29の機体をはっきりと見たと言い、大きく見えたと言っていました。着弾した瞬間、「ダッダーン」と物凄い音がしたそうです。ただ、現在いただいている複数の方の証言では、当時は小雨が降る曇り模様の天気で、米軍資料でも天候は曇りとなっているため、本当にはっきり見えたのか、記憶違いだった可能性はあります。B-29は幅が43メートルの巨大な爆撃機ですが、模擬原爆を落とした高度は米軍資料において約8839メートルであるため、仮に雲の間から機体が見えていたとしてもそこまで大きくは見えなかったものと思われます。まだ幼かったため、印象として大きく見えたのかもしれません。友朗は2020年4月に亡くなり、その後、筆者がこの調査を始めたため、詳しい話を聞かずじまいとなってしまいました。
筆者はこの話を子供の頃から戦争の話題になる度、艦砲射撃、風船爆弾の話と一緒に何度となく友朗から聞いていました。戦争中、日本中に数え切れないほどの爆弾が落ちていたという程度の知識しかなかった私は、多くの爆弾の一つを偶然見た、という程度にしか思っていませんでした。また、友朗は「余った1トン爆弾を山ん中に捨てたんだっぺ、とみんな言ってた」と話していました。
当時、友朗一家は、1945年7月17日夜にあった日立市への艦砲射撃をきっかけとして、海沿いの旧磯原地区の家から、爆弾が落ちた場所まで1.3kmしか離れていない二ツ島島上地区にあった農作業用の納屋に避難していました。(結局、その小さな納屋には戦後10年ほど住むことになったようです) 7月18日に避難してきて2日後の20日の朝に爆弾山の爆弾を目撃した可能性があります。着弾地の斜面は南側でちょうど目撃した場所に向いています。爆弾投下の瞬間を見たのは当時約5歳の友朗だけで、父母や姉など、他の家族は見ていなかったようです。
出典:Facebook「模擬原爆北茨城着弾地調査」
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